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東京高等裁判所 平成6年(う)809号 判決

国籍

韓国

住居

東京都中野区東中野一丁目五二番二号オープレ東中野三〇一号

会社役員

河本純吉こと河純吉

一九五五年一二月六日生

右の者に対する所得税法違反、常習賭博被告事件について、平成六年四月二六日東京地方裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から控訴の申立てがあったので、当裁判所は、検察官五島幸雄出席の上審理し、次のとおり判決する。

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人上林博、同野口啓朗連名の控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これを引用する。

第一事実誤認の主張について

論旨は、要するに、原判示第二の一ないし三の所得税法違反について、ほ脱の故意も所得秘匿工作をした事実もないというのである。すなわち、被告人が自分の経営する複数のポーカーゲーム店の従業員である店長をいわゆる営業名義人としたり、売上等を記載した集計表を破棄させていたのは、ポーカーゲーム店が賭博容疑で警察に摘発されたとき、被告人に責任が及ばないようにしたり、店の営業実態等が明らかになることを回避するためであり、また、仮名あるいは借名の預金口座を開設して収入を入金していたのは、姉の河正美が独断で、あるいは、妻小百合がその時々の理由により、銀行員の勧誘を契機としてしていたものであって、いずれも所得を秘匿する目的でしていたわけではないから、ほ脱の故意に基づき所得秘匿工作をしたことにならないのに、これらを認めた原判決には事実の誤認があるというのである。

そこで検討するに、関係証拠によれば、被告人は、原判決が認定するとおり、昭和六二年六月ころ、東京都新宿区歌舞伎町内において、ポーカーゲーム機と称する遊技機を設置し、賭客を相手として賭博を行うポーカーゲーム店「パピヨン」を開店したのを皮切りに、その後「デュエット」、「マイハート」(一時期「ピープル」と改称)、「ピッコロモンド」(後に「パンサー」と改称)、「ルーブル」(後に「Bb」と改称)を次々に開店し、各店の従業員であった西岡幸夫、松本茂、渡部宗明を各店の経営者であるかのように仮装して営業し、西岡ら各店の店長に命じて毎日の売上等を記入した集計表を作成させるとともに、西岡らによって手元に届けられた集計表記載の金額と現金とを照合して誤りのないことを確認した上、現金だけを受け取って集計表は西岡らに命じて破棄させ、右各店の売上金は、被告人名義のほか、親族(故人で被告人の実兄河本正吉及び河大吉の名義も含まれる)や西岡、松本などの借名あるいは仮名で住友銀行東中野支店、西日本銀行松山支店等七店舗の普通預金口座及び両支店等六店舗の定期預金口座に分散して入金していた。

被告人は、捜査、原審公判及び当審公判を通じ、右のように営業主体を仮装し、売上金等の集計表を破棄させていたのは、専ら賭博の手入れに備えた警察対策であり、西日本銀行松山支店の預金口座は、正美が独断で、それ以外の預金口座も、被告人や小百合が親族らの将来に備えるなど、その時々の理由から、銀行員の勧誘を契機として被告人以外の名義を使用したものであって、いずれも税金を意識した所得秘匿の手段ではなく、税金のことはまったく頭に

なかったと供述し、正美や小百合の供述にもこれに沿う部分がある。

しかしながら、右のような方策は、警察当局による摘発を免れるための工作であるばかりでなく、国税当局が税務調査にあたり事業の実態、所得の帰属、所得の額などを把握することを著しく困難にする所得秘匿工作にもあたることは客観的に明らかである。そして、そのことは被告人も当然に認識していた事柄であるから、被告人に所得秘匿工作の故意及びほ脱の故意があったことは明らかである。論旨は理由がない。

第二訴訟手続の法令違反の主張について

論旨は、要するに、西岡幸夫の検察官調書三通(甲一一三ないし一一五)及び松本茂の検察官調書(甲一一六)中、原審弁護人が不同意とした部分は、いずれも特信性がないのに、これらを刑訴法三二一条一項二号後段に該当する書面として証拠に採用した原審の措置には、判決に影響を及ぼすことの明らかな訴訟手続の法令違反があるというのである。

しかしながら、右両名の原審公判における証言の内容、従前の供述内容、両名と被告人との関係などの事情に照らすと、原審の措置に違法があったということはできない。論旨は理由がない。

第三結論

よって、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 香城敏麿 裁判官 中野久利 裁判官 林正彦)

平成六年(う)第八〇九号

○ 控訴趣意書

被告人 河本純吉こと河純吉

右の者に対する所得税法違反・常習賭博被告事件について、控訴の趣意は左記のとおりである。

平成六年九月三〇日

主任弁護人 上林博

弁護人 野口啓朗

東京高等裁判所第一刑事部 御中

原判決は、判示第二の所得税法違反の事実において、被告人が経営するポーカーゲーム店の営業名義人を従業員として、当該従業員が経営者であるかのように仮装したこと、右ポーカーゲーム店経営による賭博収入を他人名義の預金口座に入金したこと及び右収入を明らかにする集計表を破棄したことをもって、逋脱の意思をもってその手段として行われた所得秘匿行為と認定し、同罪の成立を認め、被告人を懲役三年及び罰金二億五〇〇〇万円に処したが、以下詳述するとおり被告人には逋脱の意思は全く存せず、右各所為は逋脱の手段として行われたものでなく、同罪成立の要件である「偽りその他不正の行為」がないことが証拠上明らかであり、原判決の右認定は明らかな事実誤認であるほか、西岡幸夫及び松本茂の検察官面前調書の証拠採否につき、その特信性についての判断を誤って、これら供述調書を証拠採用するという訴訟手続の法令違反を犯しているところ、右事実誤認、訴訟手続の法令違反は、いずれも判決に影響を及ぼすことが明らかである。

したがって、原判決は到底破棄を免れないものであり、控訴審において所得税法違反被告事件について無罪を言い渡し、常習賭博罪のみに基づき、適正な刑に処すべきである。

第一 争点と原判決の判断

一 争点

本件の争点は、被告人に所得税逋脱の意思があったと認められるのか、また、被告人が所得秘匿工作(「偽りその他不正の行為」)をしたと認められるか否かということである。

被告人は、公訴事実である所得税法違反と常習賭博のうち、常習賭博については全面的に認めたうえ、所得税法違反について、その所得税額及び不申告の事実を認めている。そして、ポーカーゲーム店を開設して継続的に賭博収入を得ていたこと、名義人を従業員として当該従業員が各店の経営者であるかのように仮装した上、右収入を他人名義(仮名借名)の預金口座に入金するとともに、日々の右収入金額を明らかにする集計表を破棄したことも認めている。しかしながら、被告人はそもそも「自己の所得税を免れようと企て」たことはなく、右各行為について原判決が要約するように「〈1〉営業名義人を仮装したこと、〈2〉集計表を破棄したことの二点は、ポーカーゲーム店が警察によって賭博で摘発されたとき、被告人に責任が及ばないようにしたり、同店の営業実態(賭客の氏名、賭金額、行為の日時など賭博行為の事実関係)が明らかになることを回避するためになされた専ら警察対策であり、〈3〉同店の収入を仮名借名の預金口座に入金していたとの点は、西日本銀行松山支店の預金口座は被告人の実姉河正美が独断で、それ以外の預金口座は被告人又は被告人の妻小百合が被告人以外の名義を使うその時々の理由があって、いずれも銀行員の勧誘を契機として開設したものであり、所得を隠匿する目的でしたのではないのであるから、右〈1〉ないし〈3〉の各行為は逋脱の手段として行われたものではない」旨、捜査段階から一貫して主張している。

従って、被告人には逋脱の意思はなく、所得秘匿行為も認められないのであるから、本件については、単純無申告犯が成立し得ることはあっても、逋脱犯は成立しないと主張してきたものである。

二 原判決の判断

原判決は、前記〈1〉ないし〈3〉の行為が主として、いわゆるゲーム機賭博が発覚した場合の警察対策等であったことを認めながら、右各行為が「副次的に所得を秘匿する目的で、すなわち所得税逋脱の手段としてなされたものである」として、被告人の前記主張を排斥し、逋脱犯の成立を認めた(なお、原判決は、罪となるべき事実として「前記各店の営業名義人を………集計表を破棄するなどして」と摘示するが、「など」については、検察官も具体的に主張しておらず、判決理由中にもこれを窺わせる記載はなく、単なる修飾句・言葉のあやと考えるほかない)。

しかしながら、原判決が右認定の理由とするところは、以下述べるとおり、全く納得できるものではなく、かえって被告人の主張が正しいことを一層確信させるものとなっている。

第二 原判決の事実認定の誤り

一 原判決の事実認定の方法について

1 原判決が前記認定をした理由の構造は、

「被告人のようにポーカーゲーム店を経営して収入を得ていた者が所得税確定申告をしていなかった場合、同店に対する税務調査が端緒となって、警察による賭博の摘発が行われるという事態も想定できないわけではないが、その逆に、警察による摘発を契機として税務調査が入ることは一般的に十分考えられるところである」「以上みたように、警察による摘発を契機として税務調査が入ることは一般的に考えられる上、ポーカーゲーム店の従業員を営業名義人とし、売上等を記入した集計表を破棄させ、同店からの収入を仮名借名の預金口座に入金することが被告人の所得の実態把握を著しく困難にする機能を有することは客観的に明らかなところであり、これらのことは被告人にとっても容易に認識し得る事柄であるというほかない。我国においては、およそ税金を納めることなく巨額の富を安定的に蓄積し得るということはあり得ないのであり、このことは通常の社会人ならば誰でも当然認識しているのであって、被告人もその例外であるとは考えられない。したがって、ポーカーゲーム店の経営によって得た収入を将来の事業資金として確保したいと考えていた被告人が、右のような手段を講じたのは、主としていわゆるゲーム機賭博が発覚した場合の警察対策であったとしても、他に特段の事情がない限り、副次的に所得を秘匿する目的を有してのことであったと推認するほかないところである」「これに対し、弁護人がるる主張するところを検討しても、右二のとおり、被告人が所得を秘匿する目的も併せ有していたと推認することの妨げとなるような特段の事情の存在は窺われない。以下では、そのうち主なものに対する判断を示すこととする」

「以上のほか、弁護人が主張し、被告人が供述するところを仔細に検討しても、前記二の〈1〉ないし〈3〉の行為が警察対策等だけでなく副次的に所得を秘匿する目的で、すなわち所得税逋脱の手段としてなされたものであるとの認定は動かない」

というものである。

2 右判示で明らかなように、原判決は、個々の事実、証拠によってではなく、一般論のみに依拠して「特段の事情がない限り、副次的に所得を秘匿する目的を有してのことであったと推認するほかない」とし、「被告人が所得を秘匿する目的も併せ有していたと推認することの妨げとなるような特段の事情の存在は窺われない」として、本件逋脱犯の成立を認めた。

このように原判決は、一般論(それ自体誤りであることは後述する)から、逋脱の意思、所得秘匿の目的を推認するという演繹的な判断をしているのであり、具体的な証拠や事実に基づき、帰納的に逋脱の意思、所得秘匿の目的を認定するという方法をとっていない。このことは、事実認定の方法として基本的に誤っているばかりでなく、そのような方法をとらざるを得なかったこと自体、右事実を認定する具体的な証拠が存しなかったことを意味するものである。

原判決の判断の枠組みは、本件の具体的事実関係を離れた抽象的な一般論(これらは必ずしも確立された経験則とは言い難い)だけから推定に推定を重ね、有罪の認定に至るというものである。そしてこの推定を覆すための「特段の事情」の立証責任を被告人に負わせようとするもので、有罪認定には合理的な疑いを容れない程度の厳格な証明を要求し、「疑わしきは罰せず」とする刑事裁判の大原則に反するものと言わざるを得ない。

すなわち、原判決が被告人の逋脱の意思を認定するに至った積極的な根拠は

(1) 前記〈1〉ないし〈3〉の行為は、いずれも所得の帰属や額の把握を妨げ、あるいは偽るという機能を有すること

(2) かかる機能は被告人にとっても容易に認識し得る事柄であること

(3) 被告人は納税義務のあることを認識していたこと

(4) 警察による摘発を契機として税務調査が入ることは一般的に十分考えられること

に尽きると言ってもよい。

右各命題が本件においていずれも妥当性を有しないことについては、それぞれ後述するが、ここでは若干の問題に触れておく。

前記〈1〉ないし〈3〉の行為が、何らかの意味において真実を隠蔽する機能を有するとしても、〈1〉及び〈2〉の目的が警察対策にあったことは原判決も認めざるを得なかったとおりであり、〈3〉についても例えば強制執行を免れるために他人名義で預金する例も少なくないことを考えれば、これらすべてが常に所得の秘匿に直結するものでないことは明白である。

原判決は、〈1〉ないし〈3〉の機能は被告人にとっても容易に認識し得る事柄であるとするが、問題は被告人が、かかる機能を現実に認識し、その認識のもとに、所得秘匿機能を利用しようとしたかどうかなのであって、認識可能性があったどうかではないのである。ところが原判決は、単なる認識の「可能性」をいきなり「現実の」認識にすりかえており、到底承服できるものではない。

また原判決は前記「特段の事情」の存在は窺われないと判示しているが、弁護人が最終弁論において指摘し、かつ本趣意書においても重ねて掲げている多くの事実や証拠以外に、どのような「特段の事情」がありうるというのであろうか。

右のような判断は、原審裁判所には、本件逋脱金額の大きさ、被告人の所為の反社会性等から無罪にはできないとの判断が先にあり、証拠がなきに等しくとも(判決自体検察官主張の論拠をほとんど採用していない、というより、したくともできない)有罪の結論をあくまでも維持しようとの考えに強く導かれた結果であると受け止めざるを得ず、法律と良心に基づいてのみ公正に判断を下すべき裁判とはほど遠いものである。被告人、弁護人は、被告人が賭博により巨利を得てしかもこれを納税しなかったことについて、その責任の重大さを十分痛感しているが、だからといって、逋脱するつもりもそのための工作をしたこともないのに、逋脱犯として有罪になるとは、どう考えてもあり得ないと確信してきた。裁判所が公正に判断すれば当然無罪になるものと期待していたところ、原判決の結論及びその理由を聞き、唖然としたというのが実情である。

3 原判決は、右のように、その判断の構造ないし過程に基本的な誤りがあるばかりでなく、次のような誤りをも犯している。

〈1〉 証拠の取捨選択が恣意的である。例えば西岡幸夫、松本茂、李哲成、金孝、金英二(以上いずれも検察官申請証人)の各証言、渡部宗明、高木栄治(以上弁護人申請)の各証言を全く無視し、判決で何ら言及していない。

〈2〉 被告人に有利な多数の消極証拠や事実が存するのに、これらを正面から率直に評価しようとせず、こじつけともいえる強引な理由付けによっていとも簡単に排斥している。原判決は、有罪認定にプラスとなりうる事項については、単なる可能性を正当な理由もなく現実性にまで高める一方で、有罪認定にとってマイナスになる事項についてはこれを正面から率直に認めようとせず、別の可能性もあるとするなどの理由を付けて簡単に排斥するという態度に終始しており、まさに予断に基づく恣意的な判断を重ねるものとしか評しようがない。

〈3〉 被告人の捜査段階での多数の検面調書や公判廷での詳細な供述の信用性について判断していない。

〈4〉 理由中で前記のように「弁護人がるる主張するところを検討しても……。以下ではそのうち主なものに対する判断を示すことにする」と判示しているが、弁護人主張の事実について、その一部についてのみ判断し、しかも個々的に判断しているだけで総合的な観点からの評価をしていないばかりか、有罪の認定に支障となるその他の事実を無視している。このような原判決の判断は、客観性、公正さを著しく欠くもので、到底納得できるものではない。

二 原判決の判示の誤りについて

前述したとおり、原判決の判示は、弁護人の主張や証拠について、その一部に言及しているのみで、有罪認定の支障となる主張や証拠のすべてについて記載していないので、原判決の結論の当否をその判示のみで判断するだけでは極めて不十分であるが、右判示についても、多くの誤りが存するので、以下その記載順に指摘する。

1 「しかしながら、被告人のようにポーカーゲーム店を経営して収入を得ていた者が所得税確定申告をしていなかった場合、……警察による摘発を契機として税務調査が入ることは一般的に十分考えられるところである(なお、弁護人も『警察の捜査が端緒となって税務調査が行われることはあっても、警察の検挙に先だって税務調査が行われるということは希有であって』(弁論要旨九頁)という形で、警察による摘発を契機とした税務調査の一般的可能性を前提にした主張をしている)」(九丁表)との部分

(一) 右判示は「一般的に十分考えられる」とするが、その客観的根拠、実質的な証拠が何であるのか明らかにしておらず、まさに独断といわざるを得ない。確かに犯罪によっては、「警察の摘発を契機として税務調査が入ること」は、「一般的」に考えられるであろうが、それについても「十分」とまでは言えないと考えるのが常識的に合致する。

ここでの問題は、「被告人のようにポーカーゲーム店を経営している者」に警察による賭博の摘発が行われた場合、それを契機として税務調査が入ることが「一般的に十分考えられるところである」といえるかどうかである。ここで注意すべきは「ポーカーゲーム店」といっても、その実態はいわゆる「ポーカーゲーム喫茶」のような店舗ではなく、ビルの一室の博打場であって、その存在自体を世間に秘している「裏稼業」だということである。「ポーカーゲーム店」というより「ポーカー屋」という博打稼業という方が正確である(第一〇回、第一一回公判被告人供述、第二回公判松本証言等)。その存在自体賭博罪による警察の取締の対象であり、実際被告人の「ポーカーゲーム店」も再三警察の摘発を受け、本件三件の常習賭博事件の摘発時点で、その都度店長らが起訴されている。しかしながら、起訴された事件も含め、その当時税務調査が入ったことは一度もない。平成二年一〇月三〇日に本件の査察調査が入ったが、これも警察の摘発を契機とするものではない(査察調査の端緒は、賭博に負けた客等の国税当局への密告と推測されるが、検察官はこの点について明らかにしていない)。被告人の店のみでなく、本件査察調査が入るまで、ポーカーゲーム店(ゲーム喫茶ではなく、ましてや正業であるパチンコ店ではない)のような純然たる賭博を業とする店に、税務調査が入ったという事実を弁護人は聞いたことはなく、被告人も同様であった。

(二) 右の点に関して、証人西岡幸夫(第二回公判)、高木栄治、渡部宗明(ともに第八回公判)のような元従業員のみならず、被告人の同業者である証人李哲成(第三回公判)、金孝(第五回公判)、金英二(第六回公判)(以上いずれも検察官申請の証人)も一致して、「ポーカー賭博で税務署の調査を受けたことは聞いたことがない」「警察のことはいつも心配していたが、税務署のことは考えたことがない」旨証言している。証人堀宏嘉の場合は、かつて遊技場も経営していて法人税法違反に問われたことはあるが、右遊技場は役所に届け出た正業であり、同証人が営んでいた他の事業とあわせて同法違反に問われたものであるだけでなく、警察の摘発、処罰は受けていないというのであるから、原判決の判断を裏付けるものではない。

賭博という裏稼業をしている者が、税務当局の調査を受けるという事態を予想していないことは極めて自然なことであって、何も右証言等をまつまでもないことである。右各証言や被告人の供述に対して、検察官や裁判所は何らこれを覆えしておらず、覆えそうとすらしていない。あまりにも当たり前のことで補充・反対尋問のしようもないからであろう。ところが、原判決は右各証言等を一切無視しているのである。右各証言に信用性がないというわけにはいかないので、無視するしかなかったのであろうが、かかる態度は刑事裁判の権威を高める所以ではない。

(三) 原判決の判示する前記かっこ書きの弁護人の主張に対する原判決の指摘は明らかに誤りである。原審における弁護人の主張は、「検察官の論拠の第一点は、警察対策を考えた者が、警察に検挙される可能性として税務署の調査のことを全く考えなかったということ自体考えられないという推論である。……一般に犯罪者に対し、警察の捜査が端緒となって税務調査が行われることはあっても、警察の検挙に先だって税務調査が行われるということは希有であって、一般的ないし通常の事態とはいえない。まして本件のような賭博営業に対して税務調査が行われたという事例がかつていかほどあったのだろうか。賭博を生業とする者が警察の検挙すらないのにいきなり税務調査の対象となることは一般に想定できないものであり、そのような社会通念も存在しない。検察官の右主張はこの点を全く無視した独自の議論にすぎず、なんらの妥当性も説得力もない。」(弁論要旨第八、九頁)というものである。

右主張の趣旨は「税務調査が端緒となって警察の摘発を受けることがある」との検察官の主張を否定するところにあり、「警察の捜査が端緒となって税務調査が行われることはあっても」という文言は単なる枕詞にすぎないうえ、「一般の犯罪者に対し」という前提で述べたもので、本件賭博稼業の者について「一般的可能性」を認めたものではないのである。原判決は、都合のよいように弁論要旨の一部のみ抜き出して、自己の判断の補強としているが、甚だ迷惑であるばかりか、弁論要旨以外にこれを補強する材料がないことを認めたも同様であろう(弁護人の弁論内容を事実認定の資料に供したものとすれば、あるまじきことである)。

(四) 以上、要するに「警察による摘発を契機として税務調査が入ることは一般的に十分考えられる」との原判決の判示は、常識に反する独自の見解で、しかも全く実質的な根拠を欠く立論であって、到底承服できるものではない。

2 「ポーカーゲーム店の従業員を営業名義人とし、……被告人の所得の実態把握を著しく困難にする機能を有することは客観的に明らかなところであり、これらのことは被告人にとっても容易に認識し得る事柄である」(一〇丁裏)との部分

(一) 営業名義人の仮装、集計表の破棄、仮名借名預金口座への入金という被告人の三つの行為が、所得の実態把握を「著しく」困難にするかどうかは疑問なしとしないが、少なくとも「被告人の所得の実態把握を困難にする機能を有すること」はそのとおりである。そして、これを被告人が「認識し得る」ことも否定しないが、「容易に」認識し得たとは思われない。「容易に認識し得た」と断ずる根拠が示されていないだけでなく、むしろ被告人の生い立ち・経歴・環境等に鑑みると、被告人自身が繰り返し供述しているように、税金のことを念頭においたことはなかったものであるから、右三つの行為が税務当局による所得の実態把握を困難にするものであると認識する可能性は少なく、認識の可能性が「容易であった」とはいえないからである。

それより本件で問題なのは、実際に「認識していた」か否かということである。そして、さらに認識していたことを前提に、その手段として右三つの行為をしたかとどうかということである。

(二) 原判決は、被告人の三つの行為が被告人の所得の実態把握(被告人自身ではなく税務当局の実態把握)を著しく困難にする機能を有することは、被告人も容易に認識し得る事柄であるとして、そこから、右各行為が「所得を秘匿する目的を有してのことであったと推認するほかない」と断ずるが、右論理には大きな飛躍があり、なぜ「推認する」ことができるのか理解し難い。三段論法というより、一種の詭弁の類である。

3 「我国においては、およそ税金を納めることなく巨額の富を安定的に蓄積し得るということはあり得ないのであり、このことは通常の社会人なら誰でも当然認識しているのであって、被告人もその例外であるとは考えられない」(一〇丁裏)との部分

(一) まず右の議論は、正業による収入ないし富の蓄積に関してのみ通用することである。しかもそれを建前論であり、社会の実情とは合致しない。正業を営む者でも、その程度は別として税を逃れ、多額の富を蓄積したままで終わることが少なくないのが社会の現実であり、誰でも知っていることである。

(二) そのことは措いても、本件で問題なのは、被告人の所得が犯罪行為によって得られた違法所得だという点である。本件のような違法所得についても納税義務があるということは「通常の社会人ならば誰でも当然認識している」とは到底言えない。後述するように、強盗・窃盗・横領によって取得した財物は所得にならないことが昭和四五年七月の所得税法基本通達の改定まで維持されていたのである。賭博による収入についても納税義務があるということを「通常の社会人」のどれほどが知っていようか。ましてや「誰でも当然認識している」などと断言できるはずがない。「通常の社会人」ですら、このような実態であるのに「通常の社会人」ではない裏稼業の人間に、このような認識が当然あるといえるのであろうか。

(三) 原判決の判示は「通常の社会人なら誰でも当然認識している」として「被告人もその例外ではない」とする。被告人は「通常の社会人」であることを前提としているとしか読めないが、そうだとすると「通常の社会人」でないものはどのような者を指すのか。百歩譲って「通常の社会人なら誰でも認識している」としても、被告人のような博打稼業の人生を送ってきた人間にあてはまる論理ではなく、「被告人もその例外ではない」とするには明らかな論理の飛躍、すりかえがある。このような無理な論理構成をしなければならないところに、原判決の判断の不公正さ、根本的誤りが現れていると言わざるを得ない。

4 「被告人の大蔵事務官に対する平成二年一一月二〇日付質問てん末書(検察官請求番号乙一七)……の前記各供述記載は、被告人が公判供述で弁解するように全部大蔵事務官の作文であるとは到底認められないが、かといって、これらを全面的にそのまま信用することもためらわれるところである。結局、これらの供述記載は、被告人が本件当時税金関係のことを全く意識していなかったわけではないという限度において、前記推認の正確性を裏付ける証拠とはなし得るというべきである」(一一丁表ないし一二丁表)との部分

(一) 右質問てん末書は、被告人の逋脱意思の有無に関する唯一の直接的証拠である。これ以外の証拠は(西岡、松本の三二一条一項書面を除き)すべて被告人の逋脱意思を否定するものばかりであり、検察官も右てん末書を逋脱の意思認定の具体的証拠として唯一主張したのみで、これ以外は何らの証拠に基づかない一般論(それは状況証拠といえるものではない)を述べたのみであった。そして原判決も、検察官の一般論では不十分と考えたためか、さらに独自の一般論(推論)を展開し、それを補強する証拠として右質問てん末書を採用した。これが、原判決が有罪認定するうえで採用した具体的な証拠として唯一のものである(他は一般論からの「推論」に止まる)。

従って、右質問てん末書の信用性いかんは極めて重要な意味を有するものであるから、その信用性の判断は慎重の上に慎重を期する必要があること当然である。

(二) ところが、原判決は「このように極めて異例の状況で作成された右質問てん末書の信用性の評価は慎重になさなければならない」としながらも、「右質問てん末書の記載をみると、被告人は、『外国人登録も東京に持ってくると警察の目に触れたり、税金の調査があるといけないと思って松山においたままにしておいた』という供述記載については、わざわざ税金の調査は頭の中になかった旨の訂正を申し入れているのに対し、警察による摘発の端緒になるとして税金のことに触れた前記各供述調書について訂正を申し入れた形跡はない」と判断するに止まり、それ以上信用性を吟味していない。原判決の「信用性の評価は慎重になされなければならない」との措辞は単なるリップサービスにすぎず、まさに羊頭狗肉との謗りを免れない。

原判決は、被告人が訂正申立をした箇所は前記一箇所だけであると認定しているが、右質問てん末書の作成経過は、被告人が公判廷で詳細に供述しているとおり、被告人が作成された書面を読み、税金の調査云々を書かれていたので、査察官に対し、税金のことは頭になかったと繰り返し述べたところ、査察官はなかなかその訂正に応じようとしなかったが、被告人が署名押印を拒否するとの態度に出たため、外国人登録云々という重要性のない箇所についてのみ訂正するという姑息な手段を講じたうえ、これをもってあたかも税金の調査云々の記載全体を訂正したかのように装い、その旨誤信した被告人にようやく署名押印させたというものであった。

ところが、原判決は、このようなてん末書の作成経過、訂正箇所の不自然さ等を一切無視し、専らてん末書の訂正申立にかかる記載部分だけに拘泥して外国人登録に関する箇所以外に訂正を申し立てた形跡はないと判示している。被告人が税金のことは頭になかったと強く主張しながら(この段階は第一回の質問てん末書で、被告人にとって初めての査察官による聴取であり、もちろん弁護人も関与していなかった)、外国人登録云々という瑣末な箇所に関してのみ訂正を求め、その一方で、警察による摘発の端緒になるなどとして税金に触れた記載部分を認容するという馬鹿げたことがあり得ようか。

原判決のような、てん末書の信用性に関する皮相な判断とこじつけの論理には憤慨に耐えない。

(三) 原判決は、右てん末書の信用性に疑問を投げ掛けながら「税金関係のことを全く意識していなかったわけではないという限度において」信用性を肯定した。右判示自体論旨不明で、理解に苦しむ。

まず、何故一部に限定して信用性を認めることができるのか、その根拠が全く明らかでない。「税金のことを全く意識していなかったわけではないという限度において」とするが、てん末書の内容から、なぜ右のような信用性が認められるのかその理由は一切示されてもいない。被告人が税金のことを具体的にどのように意識していたのか、質問てん末書のどの記載部分がいかなる理由で信用できるのかといった肝腎な点についても全く語っていないのである。「全く意識しなかったわけではない」などという極めてまわりくどい、曖昧な表現をもって一部にせよ右質問てん末書に信用性を認めたのは、被告人には逋脱の意思があったとする結論が先にあって、前述の「推認」を裏付ける証拠とするため、窮余の策として右てん末書を証拠として採用したというのが実情であると考えるほかなく、原判決が右てん末書の信用性を認めたのは明白な誤りである。右質問てん末書の作成状況については、後に詳述することとする。

5 「被告人が自らの賭博行為が発覚することをおそれて違法所得の申告をしない結果、課税されることはないであろうと考えたというならともかく、警察による摘発等を契機として税務調査が入ったときまで右所得が課税対象にならないと認識していたとは到底認めることはできない」(一二丁裏)との部分

(一) まず「警察による摘発等を契機として税務調査が入ったときまで」とあるが、被告人がそもそも自己の賭博稼業に対して税務調査が入るような事態を想定したことがなかったことは前述したとおりであり、これを想定していたとの前提に立った原判決の判断自体が誤りであり、「右所得が課税対象にならないと認識していたとは到底認めることができない」との判示は、誤った前提に基づく誤った認定である。

被告人は自己の所得について納税義務があることなど夢想だにしなかったのであるから、税務調査を受けることを予想していたことがなかったのは言うまでもないことである。

(二) 右の点は措いても、弁護人が主張しているのは、被告人は自己の所得が課税対象になるという認識を有していなかったというのであって、自己の所得が「課税対象にならない」という認識を有していたというのではない。ところが判決は、弁護人の主張を右のようにすりかえているばかりか、納税義務の認識がないというためには、自己の所得が課税対象にならないという積極的な認識までは必要としないのに、これを必要とするとの前提に立って判断しているように解されるが、その前提そのものが誤りなのである。

6 「ポーカーゲーム店の営業による収入は、賭客が自らの意思で賭けた金銭をポーカーゲーム機による勝負の結果によって取得するものであって、強盗、窃盗によって取得した財物と同列に論じることができないことは明らかである」(一二丁裏)との部分

(一) 右判示部分は当然のことを述べているにすぎないものであるが、問題は、納税義務の認識の有無を認定するうえで、その所得が犯罪によって得られたものであるという事実がいかなる意味を有するかという点にある。弁護人が主張しているのは、犯罪行為による違法な所得について納税義務のあることを認識し得る可能性は極めて少なく、このことを知る者が世にいかほど存在するかということである。違法所得にも課税されるという知識は一般的ではなく、およそ社会通念に属するとは認められないという実情である。

右判示のように、違法な所得に相手方の意思が介在しているか否かということが問題なのではない。賭博によって得た利得は違法所得である点において、強盗、窃盗による利得と何ら変わるところはないばかりか、賭博の場合においても、その利得は差押え、没収の対象となり、剥奪されるべきものであって最終的な確保が許されないものであるから、課税対象であることの認識を期待することは一般に困難であることを直視すべきである。

(二) 財物取得の原因が、強盗、窃盗であるか、賭博であるかによって民事上所有権の移転の有無に差異が生じるとしても、一般人に、課税上の扱いが異なることの認識を期待することができないことは明らかであろう。原判決は、両者には課税上の相違がある旨判示するが、それは一般人の常識から著しく遊離し、法律家、税の専門家にしか通用しない議論であると言わざるを得ないばかりか、そもそも本件における被告人の認識の実態から目をそらす論理である。右判示は、弁護人の通達に関する指摘の趣旨を曲解したうえ、有罪の認定に有利になると考えて援用したのであろうが、却って、原判決が被告人を有罪とするのにいかに苦しい強引な論理を展開しているかを如実に示すものである。

7 「西日本銀行松山支店の預金口座開設について検討するに、当時の同支店の担当者であった松元宏志の証言によれば、被告人が東京から同支店に頻繁に送金していた現金を定期預金にするよう松元が河正美に勧めると、その都度、同女は被告人と相談してからなどと言って即答をせず、翌日あるいは翌々日になってその勧めに応じていたことが認められる」「河本正吉、河大吉名義については被告人自身が別の金融機関における預金口座の名義としても使っていること、河本正吉名義については被告人が同名義で別の金融機関に預金口座を開設したころとほぼ時期を同じくして河正美が西日本銀行松山支店でこの名義を使っていることが明らかである。このような松元証言や預金名義に関する事実に照らすと、河正美が被告人の意思とは無関係に西日本銀行松山支店の預金口座を開設したとは考えられない」(一三丁裏、一四丁表)との部分

(一) 松元証言の信用性については少なからず疑問があるが、右証言部分が仮に認められるとしても、河正美が実際に被告人と相談したかどうか、したとしても、その内容は何であったのか全く不明であり、同証言をもって河正美と被告人が意思を通じて借名口座を開設したと推認することは到底不可能である。

河正美が松元の勧誘に対して、被告人と相談するからなどと述べて即答をしなかったとしても、それは例えば河正美が自分の弟であり、大金を頻繁に送金してくる被告人の実力を松元の前で誇示したいとの気持からいわば見栄を張ったに過ぎないとも考えられるし、あるいは熱心に定期預金を勧める松元に気を持たせようとした可能性もある(このような心理は誰でも日常経験するところである)。

このような可能性も大いにあるにもかかわらず、原判決は、松元の前記証言から、河正美が被告人の意思とは無関係に西日本銀行松山支店の預金口座を開設したとは考えられないとの認定に至ったのである。原判決のかかる認定が不当であることは明らかである。

そもそも被告人の右送金の目的が、これを河正美に管理してもらうことにあったことは被告人と河正美との間で当初から了解済の事項であったうえ、被告人が送金した現金を河正美が一度でも定期預金にしなかったことはなく、送金の度ごとに被告人に何らかの相談をしなければならない事情は一切認められないのであって、右松元証言自体信用できないというべきである。

(二) 河正美が借用した名義と被告人が借用した名義は、いずれも両名の姉弟であって、一致したとしても何ら不自然ではない。借用名義数は親族関係で一一口あるが、原判決は、そのうちの二名義のみの一致を両名相談の証拠としながら、他方では一致しない口座名義も存在するという事実には目をつぶり口を噤んでおり、著しく偏った判断である。

また原判決は河本正吉名義口座について、両名がそれぞれ開設した時期がほぼ同じである旨判示している。しかしながら被告人が同栄信用金庫新宿支店に河本正吉名義の預金口座を開設した昭和六三年五月六日と、河正美が西日本銀行松山支店に同人名義の口座を開設した同年三月一六日とが、何故「ほぼ同じ時期」と断じうるのか頗る疑問である。時期が「ほぼ同じ」かどうかの判断は、何を基準とするかによって結論が異なるのであり、この基準を示さない原判決の右判示は全く無意味である。

原判決の右の論理に従えば、河大吉名義の預金口座を両銀行に開設した時期も「ほぼ同じ」でなければならないことになる。ところが河正美が西日本銀行松山支店に河大吉名義の預金口座を開設したのは昭和六三年六月一七日であり、他方被告人が住友銀行東中野支店に同人名義の預金口座を開設したのは平成二年三月二三日であって、その間には一年九か月もの隔たりがあり、両者が「ほぼ同じ時期」の関係にあるとは到底言えない。しかるに原判決が河本正吉名義の預金口座の開設時期に触れながら、右河大吉名義の預金口座の開設時期については一切黙して語ろうとしないのは、明らかに片手落ちとの非難を免れない。何よりも原判決のこのような判示は、その審理態度が極めて恣意的であり、明らかに偏頗、不公正であることを自ら雄弁に物語っており、期せずして馬脚を露わしたものといえよう。

むしろ、河正美が同人自身の考えで借名口座を作ったものであることは被告人が借用していない実母の李順子、実姉河清美名義の口座を作っていることからも優に認められるところである。

(三) その他被告人と河正美が意思を通じて借名口座を開設したと認められる証拠は存しない。ところが、原判決は、「正美が被告人の意思とは無関係に西日本銀行松山支店の預金口座を開設したとは考えられない」旨判示している。

しかしながら前記(一)(二)で述べたとおり、右のように認定する根拠はないうえ、そもそも「被告人の意思」とは何を意味するのか不明である。預金すること自体なのか、定期預金にすることなのか、判決は一切言及していないのである。被告人に逋脱の意思があると認定するためには、少なくとも「他人名義で預金する意思」を認定する必要があるが、そこまでの証拠がないため、右のような曖昧な判示に止まらざるを得なかったものであり、このことは原判決が前記松元証言や「預金名義に関する事実」からは逋脱の意思を認定できなかったことを自認するものであると言わざるを得ない。

8 「右松元は、被告人の預金額が多額に上ったことから怖くなり、定期預金にするよう勧めたことはあっても、口座の名義人を増やすことなどそれ以上のお願いをすることは避けていた旨証言しているところ、この証言は、預金額が極めて高額に達しているという客観的事実に符合し、迫真的であって十分信用できる。したがって、河正美の証言及び被告人の公判供述のうち、この点の所論に沿う部分は信用できない」(一四丁裏)との部分

(一) 右松元証言についてみると、「預金額が多額に上ったことから怖くなった」とあるが、なぜ怖くなったというのか不明であり、もし怖くなったというのが真実なら、むしろ口座を分散して増やすことの方が自然で(預金額が増加するのを断った形跡は全くない)、右証言がなにゆえ「迫真的」であるのか理解できない。

(二) 預金額及び顧客数(口座数)が、銀行各店舗及び銀行員の業績の尺度であることは、何も松元や住友銀行の猪野の証言をまたずとも常識に属することであり、少なくとも預金を始めた当初、松元が口座数の増加に喜んで応じたことは疑う余地がない。一定期間経過後、松元が預金の増加に不安を抱いたとしても、松元が借名口座を渋ったり、ましてや拒否した形跡は全くない。

ところで、河正美は昭和六三年三月一六日の河本正吉名義口座に始まり、同年四月二八日に李順子名義及び河清美名義、同年六月一七日に河大吉名義、同月三〇日に被告人名義のいずれも定期預金口座を開設しているが、右松元証言は「預金額が多額に上り、怖くなり口座の名義人を増やすことなどそれ以上のお願いをすることを避け」るようになった時期を特定していないので、右各口座の開設時期といかなる先後関係にあるかは不明である。すなわち、松元が「口座の名義人を増やすことなどのお願いをすることを避けた」のが、同年六月末以前であったとすれば、右松元証言に信用性はないと言わざるを得ない。かといって、松元が「怖くなった」時期が同年七月以後であるとの証拠もない。いずれにせよ、原判決は松元証言の信用性を十分に吟味しないまま、これを採用し、その結果として河正美の証言及び被告人の供述を排斥したものであることは明らかである。

そもそも右松元証言は、少なくとも「預金額が多額になって怖くなった」時期以前においては、松元が河正美に対し口座名義の分散を勧誘し、あるいは慫慂していた事実を窺わせるものであり、このことは松元が被告人からの送金にかかる現金であって、被告人に帰属するものであることを知悉しながら、前記のとおり借名預金口座の開設申込を受け入れていた事実からも優に認めることができる。

(三) 河正美が松元の勧めで借名口座を開設したとの弁護人の主張は、松元が積極的に借名を勧めたということではなく、松元が借名であることを知りながら口座開設に応じたと言っているにすぎず、河正美も自分の判断で四つの名義に分散したが、銀行員は被告人名義以外の名義で開設することを嫌がらなかった旨証言しているのであって、原判決のように、松元が借名を勧めたことはないとの同人の証言をもって、河正美の証言が措信できないとするのは河正美の証言の趣旨を履き違えているものである。

9 「住友銀行東中野支店の預金口座について検討するに、……銀行員の勧誘の結果というにしてはその口座数が多く、預金額も多額である。しかも、使われている名義の中には被告人の実兄で故人である河本正吉及び河大吉の名義もあることを考えると、銀行員による勧誘に基づいて預金口座を開設したとする被告人の公判供述及びその妻河小百合の証言は信用できない」(一四丁裏、一五丁表)との部分

(一) 右判示のうち、「銀行の勧誘の結果というにしては預金額も多額である」との部分については、理解に苦しむ判示である。銀行としても担当の銀行員としても預金額が多いほど歓迎するのであって、預金額が多いことは、勧誘があったことの証拠でありこそすれ、勧誘の存在を否定することにはならないからである。

次に口座数が多いということから勧誘がなかったとする判示についても全く納得できない。被告人や妻小百合は、銀行員から借名での預金開設を勧められ、銀行員としては、獲得した預金の口座数が多ければ多いほど自分の業績になって歓迎することを知り、その後預金する都度、言葉で借名口座にすることを勧められなくとも、親族等の名義の口座を申し込み、銀行員も自ら申込書の作成を手伝ったりするなどしてこれに積極的に応じていたというのが実情であって、口座数が多すぎるから勧誘がなかったなどと、どうして認定できるのであろうか。被告人らはすべての借名口座について、それが専ら勧誘の結果であるとか、その開設の都度銀行員から言葉による勧誘があったなどと主張しているわけではない。借名口座の多くは、名義人に財産を残したいなどの理由で開設したもので、その詳細は弁論要旨に記載したとおりである。誰の名を借用するかは銀行員ではなく、被告人または妻小百合が決定したことは勿論であり、故人である河本正吉、河大吉名義の口座を開設したからといって、銀行員の勧誘がなかったとは、到底言えない(原判決は、誰の名義を借用するかについてまで銀行員が決定または提案しないかぎり、銀行員が勧誘したとはいえないと考えているようだが、そのような勧誘などあり得ない)。

(二) 住友銀行東中野支店の銀行員猪野が、借名口座の預金申込書の作成に関与していることは証拠上明らかである。すなわち弁護人請求にかかる印鑑届等(請求番号七)四一枚中、一〇、二五、三四、三九枚目の河本祐蔵名義、一四、二一、三一、三七、三八枚目の河本純子名義、一九、二八、三五枚目の河本翔太郎名義、二〇枚目の河本正吉名義、二九、三三枚目の清水幸太名義の各定期預金申込書の住所欄は、いずれも右猪野が自ら手書きしたものであり、しかも河本純子、河本翔太郎の住所は被告人の住所地ではなく「愛媛県松山市旭町三八-五」となっていることが、右申込書の筆跡及び小百合の証言で明らかになっている。この事実は猪野が借名による預金口座の開設を勧誘し、少なくとも慫慂した事実を強く推認させるものであるが、原判決はかかる客観的証拠と事実を全く無視あるいは見落としている。

(三) 銀行員猪野の証言について、原判決は、証拠の標目に掲記しながら、理由中では全く言及していない。これは、同証言に虚偽が多く(例えば、申込書を自分が書いたことはない旨前記客観的事実に反する証言をしている)、いかに牽強付会な論理を展開する原判決といえどもさすがに証拠として引用することが憚られたのであろう。

しかるに原判決は、借名による預金口座の開設を勧誘したことはないとの猪野の虚偽の証言を不当にも鵜呑みにし、これに反する被告人の供述や小百合の証言を排斥した。原判決は客観的事実や、これを裏付ける証拠を無視してさえも、被告人の供述やその親族、知人ら関係者の証言は信用できず、銀行員(松元、猪野)の証言は信用できるものと頭から予断をもって臨んだものとしか考えようがない。しかし銀行員が、その立場上、建前論に終始し、自分や勤務先銀行にとって都合の悪い事実を正直に述べないことが多いことは、日常経験するところであり、かかる実情をすら考慮しようとしない原判決には、その公正さ、事実認定の正確さに多大の疑問を抱かせるものであって、誠に残念なことである。

10 「被告人名義の口座に多額の預金があったからといって、それだけで被告人に所得秘匿の意思がなかったということはできない」(一五丁裏)との部分

弁護人は、右事実のみをもって被告人に逋脱の意思がなかったと主張しているわけではないのに、原判決は、弁護人が指摘した諸般の事実を他から切り離し、個別的にとらえたうえ、逐一理屈にならない理屈をつけて排斥することに終始している。右判示部分はその典型である。

この点はさて措き、被告人は住友銀行東中野支店(同支店は被告人の住居の間近に所在する)、同栄信金新宿支店、第一勧業銀行新宿支店、西日本銀行松山支店のいずれにも自己名義の多額に上る定期預金を開設しているが、そもそも、逋脱の意図を有する者が借名口座を設けたのと同じ銀行支店に多額の自己名義預金口座を開設すること自体、通常考えられないことである。しかも、本件においては同一支店に被告人と同じ登録住所地で、しかもその多くは被告人と同姓の借名を使った口座が開設されているのであって、それらすべてが被告人に帰属する口座であることは容易に把握され得る状況にあった。このような預金の状況に照らしても被告人に逋脱の意思がなかったことは明白であるというべきである。

ところが原判決は、被告人本人名義の預金額に比べ、同一銀行同一支店における借名名義の預金額がはるかに多いという理由によって逋脱の意思を認定した。前述した預金状況を総合的に考慮するならば、原判決の右認定が不当であることは誰の目にも明らかである。

むしろ、原判決の言い回しに倣って言えば、同一銀行に被告人本人名義の多額の預金が存在するのは、逋脱の意思がなかったことを強く推認させるものであり、これに反する特段の事情がなければ、右推認は動かないという判断をなすべきであったのである。

本人名義の預金の残高は、借名預金口座のそれに比べ少なかったとはいえ、それでも常時一億円を超えていたのであり、およそ脱税の目的を有する者が自己名義でかかる多額の預金をすることはあり得ないのである。

11 「預金の登録住所が被告人の住所等になっているからといって、被告人に所得秘匿の意思がなかったとはいえない」(一六丁表)との部分

原判決は右判示部分の前で、「確かに、いくら被告人以外の名義を使って預金口座を開設しても、そこに登録されている住所が右のようなものとなっていては、その預金口座が被告人に帰属するものであることは比較的容易に判明してしまうことになる」と判示しながら、右のような認定に至るのであるが、その理由はただ一つ、「しかしながら、虚偽あるいは架空の住所を登録すると、銀行からの通知等が届かなくなるなどの不都合が生じ得るのであるから、被告人がそうした事態を避けようとしたとしても何ら不思議ではない」というのである。

しかし、税務署の調査を免れたいと考える者が、通知等が届かなくなるなどの不都合が生じるという程度の極めて些細な理由で、あえて登録住所地を自宅にするというリスクを冒すものだろうか。原判決のいう「通知等」とはせいぜい定期預金の満期通知くらいしか考えられないうえ、かかる「通知」の要否は預金者において任意に選択できることになっていることからも明らかなように、預金者にとっても銀行にとっても決して重要な事柄ではないのである。逋脱の意図をもって借名預金をしようとする者にとって、かかる「通知」など無意味に等しいのである。原審が銀行取引の実態をどの程度理解しているのか極めて疑わしく、右判示は思い付きの理由付けによって弁護人の主張を排斥したものと言わざるを得ず、ひとかけらの説得力もない。

被告人が原判決のいう「不都合」などを考慮していた事実はなく、原審の単なる空想にすぎないことは、メインの銀行である住友銀行東中野支店の各口座の登録住所地は、被告人の自宅のほか、松山市にしているものが少なくないこと及び銀行員猪野が頻繁に被告人方を訪れており、「通知等」には何らの支障もあり得なかったことから明らかである。

12 「所論は、所得を秘匿しようとするのであれば、その所得を現金で秘匿保管するか、貴金属等の動産類、割引債等の無記名債などの形にして保有するのが一般であるのに、被告人はそうした方法をとっていない旨を指摘する。しかし、これはより巧妙な所得秘匿の方法があるということを意味するにすぎず、被告人がこのような巧妙な方法をとっていないからといって、所得秘匿の意思がなかったとはいえないことは明白である」(一六丁裏)との部分

弁護人が指摘した方法は、脱税事犯における手口として、ごくありふれた一般的なものであって、ことさら「巧妙な方法」といえるようなものでないことはいうまでもなく、原判決の右判示は、全く説得力を欠くが、それは措いても、弁護人は右事実だけではなく他の諸事実と総合的に照らし合わせて、被告人に逋脱の意図がなかったことが明白であると主張しているのに、原判決は右各事実を個別にとらえて、合理的理由もなく弁護人の主張を排斥している点において他の判示部分と変わるところはない。

逋脱の意図があったと認定するのであれば、それを裏付けるに足る具体的な事実、証拠を指摘するべきであるのに、そのようなものが皆無であることから、弁護人が主張する消極証拠を個別的に分断して、その一つ一つを理由にならない理由をつけて排斥し、それでこと足れりとしているのである。しかも、原判決は弁護人が逋脱の意思が存しなかったことを裏付けるものとして指摘した他の重要な証拠や事実についての判断を回避している。この点については、項を改めて述べることにする。

以上検討したように、被告人は逋脱の意思に基づき、その手段として営業名義人の仮装、集計表の破棄、仮名借名預金口座への入金という所得秘匿工作を行ったとの原判決の認定の理由は、いずれも根拠を欠き、あるいは不合理な説示であって、到底納得できるものではないことが明らかになった。弁護人は控訴審において、新たな証拠の取調べを請求する予定であるが、原審証拠のみをもってしても無罪になるのが当然であると考えており、原判決の不合理な判示に接し、一層その確信を深めた次第である。

第三 原判決が判断を避けた弁護人の主張について

一 営業名義人の仮装及び集計表の破棄について

1 被告人がその経営にかかる各ポーカーゲーム店を従業員の名義で経営していたのは、その営業が(常習)賭博罪で警察の摘発を受ける危険に常に晒されており、もし自分が経営者として検挙されるならば営業を継続することが困難となるおそれがあったので、かかる事態に陥ることを回避するため、自分の身代わりとなる者が必要だったからである。単なる従業員を店舗の営業名義人と名乗らせることは、本件のような賭博を業とするものだけでなく、いわゆる風俗営業において真の経営者が風営法違反による検挙を免れるためにも行われることが少なくないことは業界の常識に属することである。

2 このように真の経営者が従業員を営業名義人に仕立てるのは専ら警察の検挙を念頭に置いた偽装工作であり、このことは証人西岡幸夫、同松本茂、同高木栄治、同渡部宗明の各証言及び被告人の供述から明らかである。

すなわち、西岡、松本、高木及び渡部はいずれも被告人の身代わりとなりポーカーゲーム店の営業名義人になっていたものであるが、警察の手入れを受けたときに被告人を庇うため自分が経営者として責任を負うのである旨異口同音に証言している。実際、本件において常習賭博として起訴された三件については、いずれも警察の摘発当時西岡ら従業員が経営者として起訴され、すでに処罰されており、その結果被告人は摘発を免れているのである。

3 被告人が各店舗で日々作成される集計表を破棄するよう指示していたのも、営業名義人を仕立てたことと同様、警察の手入れにより賭博を常習的に行っていた事実や賭博に賭けられた金額並びに顧客の氏名等が明らかになることを回避する目的に出たものであった。この点も西岡、松本、高木、渡部の各証言及び被告人の供述から明らかであるほか、平成二年一〇月三〇日に国税局が被告人のポーカーゲーム店に査察調査のため立ち入った際、各店の店長は、相手が警察ではなく税務当局だと知った西岡の指示に従い、自発的に店の二重ドアの内側の鍵を開け、捜索及び集計表等の証拠物の押収に素直に応じたという事実に照らしても疑う余地はない。警察の手入れの場合は、鍵を開けずに集計表を破棄するのが西岡ら従業員の従来の対応であったが、本件ではそのような対応はしなかったのである(以上の点は控訴審で補充立証する)。

4 右2、3に関する被告人の供述、西岡及び松本らの各証言が真実を語っていることは、検察官の申請にかかる証人李哲成及び同金英二の各証言に照らしても明白である。

すなわち、右両証人はいずれも被告人と同様のポーカーゲーム店を経営するなど常習的に賭博行為を行っているものであるところ、李は他人を店舗の営業名義人とするのは警察対策のためだけであること、店舗の賃借人名義を自分ではなく店長とするのも警察対策であることを明確に証言しており、金も李も心配するのは警察だけであって国税や税務署関係は一切気にしないこと、お金のことではなく賭博罪で検挙(逮捕)されることが心配であること、賭博稼業に税務署は全く関係のない世界だと思っていることを一様かつ率直明快に証言しているのである。両証人は被告人との関係が悪く、被告人に好意を持たない敵性証人であるだけに、その証言内容の信用性は高いというべきである。

5 以上のとおり被告人が従業員らを各店舗の営業名義人としていたこと及び集計表の破棄を指示していたことが、専ら警察の手入れないし摘発に対する予防策であったことは疑う余地がない。

ところが原判決は、被告人の供述だけでなく、前記各証言をも全く無視している。原判決の証拠の標目欄には、右各証言を掲記しておらず、証拠として採用していないことがわかるが、理由中では全く言及していない。各証言が措信できないというなら、その旨判示するのが当然であるが、何の判示もないのは措信できない理由がなく、それを記載することができなかったためと考えるほかはない。原判決の判断の偏りが顕著であることを示す一例であろう。

二 仮名借名預金について

1 被告人はこれらの預金口座すべてを自己の意思で開設したわけではなく、また自己の意思で開設した口座について他人名義を用いたことには、それぞれ首肯するに足る理由が存するのであって、所得を秘匿する意図は全くなかったものである。

まず預金の帰属につき、被告人は国税局の取り調べを受けた当初から、そのすべてが自己に帰属するものであることを躊躇することなく率直に認めている。もし被告人が所得を秘匿する意図で仮名借名の預金を開設したのであれば、少なくとも調査を受けた当初の段階ではこれら預金の自己への帰属を否認していたはずである。そうでなければまさに税務調査に備えて仮名借名預金を設定した意味がないからである。

2 次に被告人に帰属する預金のうちには、いわゆる営業名義人であった西岡、松本並びに吉川一名義の合計二億七〇〇〇万円に上る定期預金も存在していたのであるが、もし被告人が税務署対策すなわち所得を秘匿するために西岡、松本、吉川等を営業名義人にしていたのであれば、これら営業名義人の名で多額の預金をするはずがない。なぜならこれらの預金が営業名義人である右西岡らに帰属するものとみなされて課税対象となるであろうことは容易に予想できるからである。

3 西日本銀行松山支店の河本正吉ほか被告人名義の普通預金以外の借名預金はすべて河正美が被告人の了解なく、その独断で他人名義を使い開設したものであり、被告人がこれに何ら関与していないことは前述したところであるが、河正美が河本正吉ほか被告人以外の名義で預金していたのは、被告人の妻である河小百合に対する警戒心を動機とするものであって、被告人の所得を秘匿するためではなかったことについて改めて確認しておく。

すなわち、河正美はかねてから小百合とは折り合いが悪く、小百合に対して不信感を抱いていたが、もしすべての預金を被告人の名義にしておくと被告人が死亡した場合、預金の全部を妻小百合及びその子に独占され、被告人が他の二名の女性との間にもうけた二名の子供の利益が害されるのではないかと心配し、そのため他人名義を使って預金をしたのである。河正美は小百合のみならず日本人一般に対して元来不信感を抱いていたうえ、婚外子とはいえ韓国人の血を引いている被告人の子供は河正美にとっても身内であるのに対し、小百合は日本人であって身内ではなく、加えて自ら子供を抱えて離婚した経験もあって、右婚外子を哀れに思う心情を抱いている。

要旨右のとおりの河正美の証言は、被告人の妻である小百合に対する警戒心や日本人一般に対する不信感など、公の場所においてしかも被告人を目の前にしながら表明することに本来強い抵抗があるはずの内容であるが、それだけに河正美の真情を吐露したものということができ、十分に信用できるものである。

河正美は西日本銀行松山支店の松元に対し自分の弟である被告人からの送金であることを明示して送金に手数料がかからない方法を尋ねたうえ、被告人名義の普通預金口座を開設したものであるばかりか、被告人を松元に面会させるなど預金のすべてが被告人のものであることをいわば自ら公表しているのであって、かかる事実に照らしても河正美に被告人の所得を秘匿する意思は全くなかったものであることは明らかである。

さらに被告人は自己名義の前記普通預金口座に自己の名で多額の金員を送金しており、その際他人名義を使用したことがないという事実は、西日本銀行松山支店に預金するについても被告人に逋脱の意思がなかったことを示すものである。

4 被告人が四国銀行松山南支店に開設した福富幸吉名義の普通預金口座について原判決は全く言及していないが、念のため述べると、右預金開設の目的は松山で賭博をする際の資金を東京から送金するためであった。右口座は賭博資金を送金するためだけに利用する口座であり、他の定期預金口座等とは違ってこの口座に所得を留保する目的は全くなかった。

被告人は賭博の運を呼ぶために縁起を担いで福富幸吉という架空の名義を使用したにすぎない。

右口座が所得を秘匿するために設けたものではないことは、右に述べた口座開設の目的自体及び被告人が自己の名で右口座に送金していた事実からも明らかである。

5 被告人が住友銀行東中野支店の各預金につき、他人名義を使用したことが所得を隠匿する意図に基づくものではないことは、前記第二、二、9、10、11で述べたほか、

〈1〉 右支店との預金取引は被告人名義の普通預金の開設に始まっており、しかも被告人名義の普通預金及び定期預金の金額は、昭和六三年末時点では合計九〇〇〇万円余であったものが、平成元年末には合計三億一〇〇〇万円余に増加し、平成二年末には合計一億二〇〇〇万円余と減少しているもののなお多額に上っており、被告人名義の預金額を意図的に減少させようとした形跡はないこと

〈2〉 借用された氏名はすべて被告人の家族、子供または従業員であり、架空名義は存在しないこと

〈3〉 被告人ないし小百合は、定期預金を組もうとする際は、例外なく担当者の猪野を自宅に招いてその手続をしていたこと

〈4〉 被告人は、従来利用していた第一勧業銀行新宿支店、伊豫銀行新宿支店、東京相和銀行新宿支店の預金をわざわざ自宅近くの住友銀行東中野支店に移動させ、集中させていることなどの事実に照らしても明らかである。

もし、被告人が所得を隠匿する意思を有していたのであれば、右のような行動を取ることは到底考えられない。

右〈1〉の事実はもちろん、〈2〉、〈3〉の各事実も税務当局による預金の帰属者の調査、究明を容易ならしめる端緒となるものであるうえ、また右〈4〉の事実に至っては、松元宏志の被告人宛書簡(検察官請求番号甲第一一九)も指摘するところの「複数の銀行に分散して預金するのが税務署対策として好都合である」という、子供にでも判るような一般常識に真っ向から反するものであり、およそ所得を秘匿しようとする者の行動とは絶対に考えられないのである。

三 財産隠匿行為が存在しないことについて

前述したとおり、自己の所得をすへて秘匿しようと考えるのであれば、収入をそのまま現金で隠匿保管するか、貴金属等の動産類、割引債などの無記名債など、その帰属主体が表面に現れない形態で保有するのが一般であろう。ところが被告人は、自動車二台、国債、ゴルフ会員権以外はすべて銀行預金として保有し、銀行の貸金庫(同栄信金新宿支店)も被告人名義にしていたのである。右自動車の登録名義、ゴルフ会員権は、いずれも被告人名義である。国債は住友銀行東中野支店に被告人名義で預けてあった(甲第一〇、一一)。預金通帳、印鑑及びゴルフ会員権証書等は自宅または右貸金庫に保管しており、財産の隠匿行為は全く行っていない。

この事実もまた、被告人に所得隠匿の意思がなかったことを裏付けるものである。

四 納税義務の認識について

1 この点については原判決が言及しているが、弁護人の主張を正しく理解していないので、ここで要点のみ述べる。

強盗、窃盗であれ、賭博であれ、犯罪によって得た違法所得には課税されないはずであると考えるのが一般人の自然な法感情であり、これが社会通念であるといえる。違法所得が課税対象とされることは、これを裏返せば違法所得が国家によっていわば公認されることに等しいのであるから、一般人の観念からすればまさに背理であり奇異に感じられるものだからである。

また違法所得は相手方に対して返還義務があるなど、一般に民事上その確定的取得が許されないものであり、同時に刑事上は没収や追徴の対象となる。したがって一旦取得した経済的利益とはいえ、常に相手方または国家から剥奪されかねない状態にあるのであるから、所得者本人において右利益が課税対象となるとの認識を持つことは一層困難である。

2 被告人は、この点について

「博打商売だけでなく、競輪や競馬で儲かった分を申告する義務があるとは国税局の人に聞くまで全く分かりませんでした」

「窃盗とか殺人で報酬をもらっても納税の義務があると聞いたときはびっくりした」

「博打商売で捕まった場合は現金全部没収されてそのお金は全然返ってこないし」

などと繰り返し供述しているが、これらは極めて常識的な内容であって一般人の法感情にも合致し、その信用性は極めて高い。

例えば競輪、競馬で得た利益に所得税が課せられることを知る者は少ないが、その理由は、犯罪でないとはいえ競輪や競馬がその性質上賭博そのものであり、賭博による儲けは本来課税対象ではないという理解が根底に存するからである。まして犯罪である賭博行為によって得た利益が課税対象となるということは被告人のみならず一般人にとっても意外な事実であることは前記のとおりであって、被告人の右供述が真実を述べるものであることに疑いの余地はない。

3 被告人に納税義務の認識がなかったことは、本件査察調査を受けた直後の被告人の言動に照らしても明白である。

すなわち、被告人は自己の経営するポーカーゲーム店が国税局の調査を受けたことをゴルフのプレー中に知らされ、何故自分が国税局の調査を受けることになったのか、その理由を全く理解できなかったが(被告人の供述)、警察による摘発と同様のものと考えて何よりもまず逮捕されることをおそれ、当日は帰宅せず、直接大阪の金英二を訪ね「まさか国税局に入られるとは夢にも思っていなかった」などと事情を話した。そこで金英二は実兄である金孝に電話で事情を告げた(証人金英二の証言)。金孝はこれを受けて陣野隆一を被告人に紹介した。被告人は陣野に要求されるまま金五〇〇〇万円を交付して逮捕されることがないような措置を講ずることを依頼したが、税金面での対応策については全く知識がなく、陣野に対し何らかの具体的な対応策を取ることを自発的、積極的に要請したことはなかった(第五回公判金孝の証言)。

被告人が自己に対する国税局の調査または税務調査一般の可能性を全く予想していなかったことは右の事実から明らかであり、ひいて納税義務の認識もなかったことは優に認められる。

4 証人金英二も被告人と同様に賭博を業とする者であるが、

「国税とか税務署なんて全く気にしない」

「税務署の調査や国税のことなんか考えたことがない」

「私らの商売は警察関係だけの心配で、税務署関係は一切気にしていない」

「私らの稼業は税務署は全く関係ない世界だと思っている」

などと証言しており、賭博を業とする者の警戒の対象は専ら警察だけであって、税金ないし税務調査に対する警戒はもちろん、これを意識したこともないという実態を明らかにしている。

前述したとおり、金英二は検察官申請の証人であるところ、右供述内容に不自然または不合理な点は全く見いだせないうえ、また右証言の時点において金英二には被告人をことさら庇わなければならない事情は認められないのであるから、その信用性に疑いを入れる余地はなく、いわゆる裏稼業の世界に住む人間の通常の意識を正直に吐露したものであると断定できる。

さらに、一時被告人とポーカーゲーム店を共同で経営していたことがあり、その後被告人が独立して開業したため、被告人に対して好意を抱いていない李哲成(同人も検察官申請証人である)も「税務署の手入れを受けるということは考えたことはない」と金英二と同旨の証言をしている。

被告人の「税金のことは全く頭になかった。納税義務とかそういうことも考えたこともない」旨の公判廷における一貫した供述は、金英二及び李哲成の右各証言と完全に符合するものであり、真実を述べるものであることは明白である。

五 被告人の平成二年一一月二〇日付質問てん末書の信用性について

1 本件において、逋脱の意思の有無に関するほとんど唯一の直接的証拠は被告人の平成二年一一月二〇日付質問てん末書(乙第一七)である。検察官もこれを拠り所として被告人に逋脱の意思があったことは明らかである旨主張し、前述したとおり、原判決もその信用性を一部認め、有罪認定の証拠とした。

しかしながら、右質問てん末書は、原判決も認めたとおり極めて異例な状況下で作成されたという事情があるほか、国税局及び検察庁において多数作成された被告人の他の供述録取書に比較して、内容的にも際立って異彩を放っており他に比べて異質なものであって、信用性を全く欠くものである。

すなわち、右質問てん末書は、本件において最初に作成された被告人の供述録取書であるが、営業名義人の点、集計表破棄の点及び仮名借名預金の点すべてについて、これらが逋脱の意思に基づくものであることを全面的に認める内容になっている唯一の書面である。被告人はその後長期かつ多数回にわたって行われた取調べにおいて、逋脱の意思を有していたことを認めたことは一度もなく、何故右質問てん末書だけが突出した内容となったのか、極めて奇妙、頗る不可解である。この一事をもってしても、同質問てん末書の記載に安易に信を措くことは危険であると言わなければならない。

2 さて被告人は公判廷において、右質問てん末書に記載されているような供述をしたことはないと断言し、右質問てん末書において被告人が訂正申立をした事項が税務署対策のために外国人登録を松山に残したままにしていた旨の記載部分だけであって、税金に関するその余の記載部分については訂正申立がなされなかったこととされている点については、右てん末書への署名指印を求められた際、税金のことは全く頭になかったから質問てん末書全体を通じて、その点を訂正するよう申し立てたところ、その作成者である大蔵事務官木村善治(同人は東京地検特捜部から出向中の者)がこれを受け入れたので、被告人は右質問てん末書中税金に関連する記載部分全部を訂正してもらったものと誤信し署名指印したと供述している。

3 ところで同質問てん末書が作成された平成二年一一月二〇日の取調べは、植田茅税理士の自宅(マンション)の居間において同税理士の同席のもとに行われたものであり、本件における被告人に対する最初の取調べであった。税理士立会の取調べは極めて異例であり、公判立会検察官は、当初、法廷で、査察官に確認したところ税理士は当日の取調べに立ち会っていなかった旨釈明していたが、後に至り右税理士が立ち会っていた事実を認めた。

さて、当時被告人が抱いていた最大の懸念は自分が逮捕されることであり(国税局に逮捕権がないことを被告人は知らなかった)、陣野隆一に対して自発的に要請した唯一の事項は逮捕されることがないような措置を講じてもうらうことであった。

国税局の査察調査が入って間もなくの平成二年一一月三日、陣野から紹介された右税理士は、被告人の右意向を踏まえて、「国税局の取調べは一回で終わるうえ、被告人自ら国税局に出頭しないですむように取り計らう」旨虚偽の説明をして、取調べに協力するよう説得して被告人を右取調べに応じさせたものであるが(被告人の平成三年一〇月二三日付検面調書参照)、自らこれに終始立ち会い被告人の主張を十分理解していたにもかかわらず、被告人の正当な利益を擁護しようとした形跡は全く窺えず、かえって被告人を国税局に迎合させようとしていたものと推認される。

このような経過を経て同日正午過ぎに始まった取調べは、食事抜きののまま午後一一時前後まで一〇時間余の長時間に及ぶものであって、しかもその間逋脱の意思の有無をめぐって右大蔵事務官と被告人との間でかなり激しいやりとりが交わされた事実があった。

このため被告人は取調べの最終段階においては心身ともにかなり疲労していたはずであり、取調べが深夜に及んだために、必ずしも広いとはいえない植田税理士宅に在宅していた同税理士の家族にまで迷惑がかかることを気遣った被告人が、いわばせき立てられるような心理状態にあったことも十分に窺うことができる。

このような状況の下で、しかも、生まれて初めて経験する査察官の取調べ、てん末書の作成に対して、被告人が右訂正部分を冷静に読み、その意味を正しく理解し得たものとは認め難く、むしろ被告人が自分の擁護者とみなしていた植田税理士から質問てん末書に署名するよう指示されたために、記載内容を正確に閲読しないまま署名するに至ったものである。以上は、被告人が公判廷で詳細に述べていることから十分認められるところである。

4 そもそも右質問てん末書の記載内容自体、その信用性に多大の疑問を抱かせるに十分である。

すなわち、右訂正申立部分から直ちに明らかになることは、大蔵事務官は被告人が何ら供述しないにもかかわらず、税務署対策のために外国人登録を松山に残したままにしていた旨一旦は勝手に記載していたという事実である。

また同質問てん末書は、店舗の営業名義人を置いていたこと、集計表の破棄を指示していたこと及び仮名借名の預金をしたことはいずれも逋脱の意図に基づくものであることを自白した内容になっているが、もし真に被告人がこのような供述をしたのであれば、これらの事柄が意味する重要性に比べて極めて些細かつ枝葉末節であるともいえる前記外国人登録に関する部分にだけ強くこだわり、訂正に応じなければ署名を拒否するという強い態度に出てまで訂正申立をする必要は微塵もなかったはずである。

被告人は自分がなぜ署名したのか十分理解していないが(その旨の公判の供述は十分信用できる)、以上の事情に鑑みると、被告人は訂正申立にかかる部分を閲読した際、必ずしもその全文を正確に読まないまま、単に「税金の調査については頭の中になかったのでその旨訂正してください」との記載部分(この記載部分が行頭から始まっているのは単なる偶然だろうか)のみに捉われた結果、自己が申し立てたとおり税金に関する部分全部を訂正してもらったものと早飲み込みし、植田税理士の前記指示もあって軽率にも右質問てん末書に署名したものとみるのが実態に沿う。

5 以上を総合すれば、右質問てん末書の税金に関連する部分は被告人が供述しない事項を記載したものである疑いが濃厚であり、その信用性は全面的に否定されるべきであって、原判決のようにたとえ一部に限定したとしても、合理的な理由なしに信用性を認めることは到底許されない。

因に右質問てん末書は検察官にとってその主張に沿う決定的な、かつほとんど唯一ともいえる重要な証拠である。にもかかわらず検察官は公判においてその取調べを請求せず、長期公判の終盤においてしかも弁護人に促された結果初めて取調べを求めるに至ったという経過がある。このことは何よりも検察官自身、必ずしも右質問てん末書の信用性に自信がなかったことを窺わせるものであろう。

6 右質問てん末書以外の査察官作成にかかる質問てん末書についてみると、平成二年一一月二〇日付のものから平成三年七月三〇日付のものまで合計一四通作成されていて、弁護人が要求した結果、検察官からこれらすべてが公判に提出されているが、逋脱の意思に関して記載されたものは一通もない。査察官にとって、告発の要件としても重加算税の賦課の条件としても、逋脱の意思の有無は極めて重要な事項であり、実際、取調べにおいてこの点を再三追及したものの、被告人に一貫して否定され、結局てん末書には全く記載しなかったというのが実情である(第一六回公判における被告人の供述参照)。このような経過に鑑みれば、右質問てん末書の記載がいかに不自然で、信用性に欠けるものであるかは一目瞭然であろう。

六 被告人の供述について

1 事件の真相を最も知る者が被告人であることはいうまでもなく、事実認定において、被告人の捜査段階及び公判廷での供述は、その内容が自白であろうと否認であろうと重要な証拠価値を有するものである。従って、右供述内容の信用性を供述経過を考慮しながら十分吟味することが不可欠であるが、原判決は、証拠の標目として被告人の検面調書の全部、公判廷における供述の全部を掲記しながら、理由中では一般論(それも独自の見解)による推認に反する被告人の供述を悉く排斥し、しかも説得力ある理由も付さず断片的に言及するのみであり、被告人の供述内容の信用性の検討は実質的に何らなされていないに等しい。重要部分に関して被告人の供述のどこが、なぜ措信できないのかを具体的に判示しなければ、判決が説得力を持ちうるはずがない。

2(一) まず捜査段階における供述についてみると、被告人は平成三年一〇月九日、東京地方検察庁に所得税法違反で逮捕され、それ以降検察官の取調べに対し、逋脱の意思がなかった旨一貫して供述している。被告人は、所得金額についてはもちろん、自己の経営するポーカーゲーム店について、従業員の名義で経営していたこと、集計表等を破棄させていたことを当初から認めていた。従って、検察官の取調べの主要な目的が、逋脱の意思を認めさせることにあったことは明らかである。

検察官は、逮捕後、同月三〇日に起訴するまでの間、連日東京拘置所で取調べを行ったが、遂に「自白調書」を作ることはできなかった。その理由が、被告人が自己の罪責を免れようとして黙秘したり虚偽の弁解をしたためではなく、被告人の供述内容に不自然、不合理な点も供述の変遷もなく、真実を述べていると認めざるを得なかったことにあることは、多数の検面調書の記載内容からみて明らかである。

(二) 逋脱の意思の有無について詳細な記載のある平成三年一〇月二六日付検面調書(乙第三)を見ると、「私は正業につかず、ルーレット賭博、バカラ賭博、麻雀賭博などして、松山、大阪、九州などを転々とし、博打の世界で生きてきた訳ですが、このような世界では、周りの人間は皆税金のことなど頭にもないし、従って、話題になったこともなく、関心はもっぱら賭博のことばかりであり、せいぜい警察にパクられたくないという意識を持っているにすぎず、税金のことは頭になかった」と述べている。そして、自己の経営するポーカーゲーム店について、「店長の名前で営業してきました。これは警察対策でして、ポーカーゲーム経営は賭博を商売とすることから、警察に摘発される危険がありますので、その時に身代わりになって罪を背負ってもらうためでありました」と述べ、店長の名前で営業していたことが、税金対策であったことを明確に否定している。

また店の収入を、親族や従業員名義などで銀行に預金していたことについては、銀行員に口座を増やすよう勧められるなどしたためであって、預金を分散して店の売上げや被告人の財産を分からなくする目的など全くなかったと供述し、店の売上げメモ等を廃棄していたのは警察対策であり、店の売上げを隠すためではなかったとも供述している。

これらの供述は、平成三年一〇月二九日付の検面調書(乙第一三)においても同様である。同調書では、検察官が問答式によって理詰めやあげ足とりなどの方法で被告人の供述が不自然であることを文面上印象づけようと努力していることが窺えるが、逆に被告人が真実を供述していることをくっきりと浮かび上がらせる結果となっている。被告人の右供述が真実であることは、今回常習賭博として起訴された三件について、警察の摘発により、いずれも従業員が身代わりに逮捕されて起訴され、被告人は逮捕を免れたという事実からも裏付けられ、十分信用できるものである。

(三) このような検面調書の内容に照らすと、査察官の平成二年一一月二〇日質問てん末書(乙第一七)の内容が、いかに不自然なものかが改めて明らかとなる。検察官は、その取調べにおいて、右てん末書を前提として被告人を追及したものの、それが査察官(前述したように、東京地検特捜部所属の検察事務官から出向したもの)の作文であって、信用性がないことを承知していたからこそ、同旨の検面調書を作成しなかったのである。公判立会検察官も元来右質問てん末書の取調べを請求する予定ではなかったのであるが、公判の最終段階に至って本件を立証する証拠が極めて乏しいことを危惧し、その信用性に疑問を抱きつつも窮余の策として右質問てん末書を証拠として提出するに及んだものと考えられるのである。

3 被告人の公判廷における供述を見ると、合計八開廷にわたる被告人質問において、供述は終始一貫し、その内容は具体的で、自然かつ合理的、証言態度も真摯、率直であって、十分信用できるものである。

納税義務についての認識に関して、一部供述に混乱が見られるが、これは質問の趣旨を十分に理解できないままで答えたり、被告人の表現能力の乏しさ(口下手)に基因するものであり、むしろ被告人の朴訥真面目な人柄のあらわれと見るべきである。また、その供述は、捜査段階のそれと同一であり、公判廷において、被告人が自己の刑責を有利にするために弁護していると窺える状況は全く見られない。原審検察官は、論告で被告人が「検察官や法廷においても、不自然不合理な弁解ばかりを行って、自らの責任を回避しようとしている」と非難するが、具体的にどの供述が不自然、不合理なのか何ら指摘していない。公判廷における被告人質問においても、かなり強引な誘導、あるいは誤導質問により(例えば、第三回におけるポーカーゲーム店の利益を税務署に申告したらどうなっていたか、今考えてどうなったと思うかという部分など)、被告人の供述の矛盾、不合理性を引き出そうと努めているが、何一つ成功していない。裁判官も質問を試みているが同様である。成功しないのは当然といえば当然なのである。被告人が誤魔化そうとする気持ちを抱くことなく、終始真実を述べたからである。

第四 訴訟手続の法令違反

一 原判決は西岡幸夫の検面調書三通(甲第三九、四二、四七)及び松本茂の検面調書一通(甲第五〇)の弁護人不同意部分について、特信性がないにもかかわらず、いずれも検察官の請求どおり、刑訴法三二一条一項二号後段書面として証拠採用したが、これは、特信性についての判断を誤り、ひいて同条の適用を誤ったもので、訴訟手続の法令違反に該当することが明らかである。

二 右各調書に特信性が認められない理由は、原審における弁護人の平成五年九月六日付「検察官の証拠調請求に対する意見」に述べたとおりであるが、原審裁判所は、何ら理由を示すことなく、右各調書を前記書面として証拠採用した。その際、原審の裁判長は、「一応採用するが信用性の判断は十分する」と口頭で発言した。しかし、これは奇異なことである。特信性ありと判断しながら信用性の判断をするというのはいかなることか。裁判所の最近の実務の大勢は、法三二一条一項二号後段に規定する要件を軽視し、調書の記載と公判廷における供述に多少の相違がありさえすれば、検察官の同条による証拠調べの請求を安易に認める傾向にあるように思われるところ、原審裁判長の前記発言はその典型であって好ましいことではない。もっとも原判決は、右各調書を証拠として採用はしたものの、判決理由中では、両名の公判廷における供述のみならず、右各調書についても一切言及していない。しかし、だからといって、判決に影響を及ぼさなかったと言うことはできないところである。

三1 右各調書のうち、原審検察官が営業名義人を仮装していたこと及び集計表を破棄していたことが、警察対策のみならず税務署対策であったことを立証するために提出した西岡幸夫の平成三年一〇月一九日付調書(甲第四二)及び松本茂の同年一〇月二四日付調書(甲第五〇)について、念のため触れておくことにする。右西岡の調書の記載は「もし、河本が私がキャンパスノートに店の売上の集計を記入していることを知ったら、警察や税務署に摘発された時に証拠になるのでしかられると思い、河本にはキャンパスノートに記入していることを知らせませんでした」というものであり、右松本の調書の記載は、「各店の実質的経営者は純吉さんですが、警察や税務署をはじめ、対外的には各店の経営者ということで対応するという純吉さんの指示で、店舗の賃貸借名義人としても、純吉さんの名前を出さないようになっていました」というものである。検察官が立証に用いたいのは、右記載中の「税務署」というわずか三文字の記載部分なのである。右記載部分が何ら具体性を有しないものであることは言うまでもなく、信用性を欠くものであることは、次に述べるとおりである。

2 すなわち、右各供述調書を作成した検察官は、右両名が営業名義人となっていたこと及び集計表を破棄していたことが警察対策であったことは認めながらも税務署対策であったことについては否認したために、警察対策を供述した部分にことさら目立たないように「税務署」という三文字を紛れ込ませ、いわゆる読み聞けを行うにあたっては、当該部分を一気に朗読して右両名にその部分を聞き落とさせた疑いが濃厚である。

右各検察官調書作成の目的は、被告人の逋脱行為を明らかにすることにあったのであって、検察官は被告人が逋脱の意思をもって営業名義人を置き、集計表を破棄させていたことを裏付ける証拠としたいのであるから、もし両名が税務署対策であったことを認めていたのが事実であるとすれば、両名に対し、ここぞとばかりにこの点についてのさらに具体的かつ詳細な事情についての供述を求めるべきであり、かつそうしたはずである。ところが右各検察官調書にはそのような形跡は微塵も認められないのである。これはすこぶる不可解なことと言わざるを得ない。両名に正面から税務署対策であったことを認めさせようとしても、これを否定することが明らかであったため、「警察」という言葉の次に「税務署」という言葉を、いわばどさくさまぎれに挿入したと見るのが自然である。このようなごまかし、小手先の手段で調書に署名押印させることが少なくないことは、調書作成に関与したことがある者なら誰でも容易に理解できることである。

西岡らは公判廷において、右調書の記載のように検察官に述べたことはない、検察官が調書の読み聞けを早口で行ったため、右のような記載であることはわからなかった旨証言しているが、首肯するに足る証言である。以上述べたとおり、被告人に逋脱の意思はなく、従って所得秘匿工作を行ったこともないことは証拠上明らかである。

被告人経営のポーカーゲーム店が違法な賭博行為を業とするものであり、警察の取締の対象であって、摘発されれば自らが逮捕され、賭博による収入を没収されることを恐れていたため、集計表の破棄などの行為は専ら警察対策として行ったものであって、税金のこととか、税務調査のことは考えたことがなく、税金を免れようと工作したことはないという被告人の供述のどこが信用できないというのか。

被告人は賭博による所得であっても課税対象になることを査察調査が入った後、査察官から教えられて初めて知るに至り、その結果、本件所得に課税されることについては納得したものの、所得秘匿工作をしたとして告発、逮捕、起訴されたことに驚き、その点については事実に反しており到底納得できないので、捜査、公判を通じ、逋脱の意思も所得秘匿工作の事実もなかったことを一貫して訴えてきたのである。

ところが、原判決は被告人のこのような心底からの主張を理解しようとせず、逋脱犯の成立を認めた。原審は、以上に詳述したとおり、検察官主張の犯罪事実が完全に証明され得ているかどうかを虚心に審理すべきであるのに、却って弁護人の主張を排斥することにのみ腐心し、これによっていわば反射的な結論として有罪の認定を導いたものであって、刑事裁判の名に値しない。一切の予断を排し、証拠と事実を虚心坦懐に見つめて公正な判断を下されること、弁護人の希望はこの一点に尽きる。

原判決の認定が誤りであることは明らかであり、控訴審において是正され、刑事裁判に対する国民の信頼をさらに高め、より確固たるものにされるよう切に期待するものである。

以上

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